そこ、ここ、平坦

 

手中に収めたスマートフォンから放たれる白い光をながめる。四角い枠に収まって映される情報は目まぐるしく更新を繰り返しているから、いつもわたしたちは追う側だ。いったい何に囚われて、こんな縮こまったものを凝視してしまっているんだろうとふと思う。ネットの世界と現実の世界は地続きでないのに、大差ないものだと錯覚してしまう瞬間がたまにある。文字も画像も歴史的遺産からたった今生まれた赤子の写真まで、並べらてしまえばどれも均一な価値になってしまうのはどうしてなのだろう。ふと、とあるコラムで目にした文章が思い浮かぶ。そこには情報や技術の発展のスピードと人類の進化のスピードの違いについて書かれていた。要約すると、テクノロジーの発展するスピードがあまりにも速すぎるせいで、身体(からだの作りは縄文時代の頃とあまり大差ないらしい)とのバランスがうまくとれず、精神疾患や生きづらさを抱えるケースが増えているという内容だった。確かに...。効率や利益を第一優先で考えるやり方は、一歩間違えると脇に置かれた大切なものまで奪いかねないような気がして危険なのではと思う。便利とはなんだろう。コインに表面があれば裏面もあるように、便利になったと感じられる面の裏側には、それと同じくらい、失われた数多の体験がびっしりと隠れているのではないかと不安な気持ちになる。

 

ある朝、自転車に跨ってサイクリングに出かけると道路の補修工事の現場に遭遇した。片側の車線がポールで囲われていて、狭められた隙間を交通整備の信号に従って交互に車が行き来していた。作り替えられた新品の道路は、太陽に照らされながら黒光りしていて、熱風に混ざって鉱物特有の匂いが香ってきた。用事を済ませ再びその場所を通ると、すでに撤収作業も終わっていて、旧道路と新道路の継ぎ目くらいしか痕跡が残されていなかった。ふと反対方向からやってきた車が目の前を通過していく。新しい道路はきれいに均されていて、去っていくタイヤの音が心地良いくらいに軽やかだった。

 

平坦であることに、どこか安定であるという印象がする。ごろついた道なんかより平らであったほうが走りやすいのだし、不快感も感じない。均されて、均されて、なにもかも、日々の生活も、人との繋がりも、シームレスに、自分にとってできるだけ平穏であれとそう思うのがふつうなのかもしれない。でも心のどこかで、齎される安定が一時的なものなのだとも感じている。舗装されていない砂利道のひどく疎らだったのを思い出す。ヒビが入り、塗料も剥がれ、経年劣化が見て取れるものの中に、抗えぬ自然の摂理を感じる。新品のものはいつしか旧品へと移り変わる。過去の記憶を辿ると、ハンドルが切られてゴムタイヤが石や砂をゴロゴロと巻き込んでいく音が頭の中でリフレインしている。あの音はきっと、人の意志とそれに捻じ曲げられていく環境とが拮抗し合う音だ。

つよい人よわい人

 

生活を回していると、ただ流れているだけの時間の中にあらゆる”境目”が散りばめられていることに気がつく。その根底にはきっとわたしたちにとっての「都合を良くするため」があって、「一分二分」といった細々した時間の切れ端から「ライフステージ」や「人生の節目」のように、分かりやすい形をした境目が無数に切り込まれている。でもこれはきっとそう思うこともできるし、思わないこともできる。
時間に限らずわたしたちがいる社会に目を移してみても、同じことが言えるのかも知れない。労働のルール、人を裁く法律、家族の在り方、ほんとうはありもしないものをあると信じることができる。その虚構に包まれながらも、信じることで他者と繋がりを持てたり、自分の生を実感できる瞬間もあれば、そう思えない瞬間もある。わたしたちは常にここにはない場所に向かって、物語を作りながら生きているのかもしれない。過去から引き継いだ物語に手を加えながら、数えきれない人によって織られ続け、とても巨大な巻物を次の世代へと受け渡していく。そんな流れに気がつけば乗っけられているという感覚がある。

3年くらい前のことを少し思い返してみる。大学生だった当時、深いところで理解し合えると思える人に出会い、共に時間を過ごすようになった。いつかわたしのことを「魂が近い人」と形容してくれたことがずっと記憶に残っている。精神が未熟ながらも色んな話を重ねる中で「つよい人とよわい人」について話を交わした。
わたしにとってその人は「つよい人」でわたしは「よわい人」だった。そのことを打ち明けると、相手はわたしのことを「つよい人」だと言った。今思い返すと、「つよい」も「よわい」も何かを基準にした時に生まれる、プラスやマイナスのでっぱりをそう判断していたのだろうと思う。時間が経つにつれ「つよい」も「よわい」も使わなくなっていったが、それはなんとなく基準そのもののいい加減さに気がついてしまったからだったと思う。近しい存在だと思っていたお互いですら、全く違うところに基準を設けて周りのあれこれを判断していたのだから。


「事実はない。存在するのは解釈だけだ」というニーチェの言葉を思い出す。
「つよい人」も「よわい人」も「時間の境目」も「ほんとう」もきっとこの世界にはない。ただ自分のなかに何かしらの基準をこしらえて世界を見た時、そうした解釈が生まれるのだと思う。その解釈は、自分の意志で変えることもきっとできる。ここにわたしは希望そのものを感じている。だってそれは、破壊と再生、それまでの自分を亡くして、新しく作り変わった姿と向き合える出来事だから。昨日会った人はもう知っている「あの人」ではなくなっている、各々が抱えた、そしてこれから失うであろういろんな解釈が蔓延っているのがこの世界なんだということを忘れたくはないし、それを卑下してしまうのは簡単かもしれないけど、他者との繋がりから遠のくばかりのような気がしている。それだけは忘れずにいたいと思う。

プラネット

 

エッセイがとても好き。立ち現れた悩みごとが足取りを重くさせるとき、棚に仕舞い込んだエッセイ本をいくつか手に取り、眺めてみる。エッセイ本に出会った当初は、物語と違って、別にどこから読み進めてもいいのだしなとなんとも気楽な心持ちでいたのが、ある時ふと、エッセイとはひとつひとつに著者の生活記録や思想が詰まった宝箱とも言えるんじゃないかと思えた。そうすると一冊のエッセイ本はまるで一個のブランドで、色んな顔をしたお話がパッケージされ、着飾ったきれいな姿で陳列されている様子が浮かぶ。各々に授けられた誇らしげなタイトルをぶら下げて。

リボンを解く、開封の儀式、少し味見、これは悲しい味、こっちは苦しい味、こっちは嬉しい味、こっちは楽しい味、こっちは不思議な味。
文字だから腐らないことを良いことに、気ままに頬張って手をつける。昔買った村田沙耶香さんのエッセイ本に『私が食べた本』があったのを思い出す。やっぱり本は食べ物だった。


photographyがとても好き。普段は写真という言葉を頻繁に使うけど、本当は写真よりもphotographyの方がしっくり来る。「真を写す」と書いて写真。その字の通り、写真は必ず機械というフィルターを通って出てくるから、中立的なものに見える。けれども、それだけでは済ませない要素もあるように思う。photographyという言葉は、「光(photo)と書くこと(graphie)」という2つの単語に由来する。光で描く。この言葉には、いつも意志を持った人間の動きが見え隠れして見える。絵の具のように光を操って、鮮やかな色彩や濃淡のある画をつくりだす。一人の人間が、捕まえたイメージに実体を与えてこの世界に生み出そうとするまでのこの一連に、どこか魔術的なものの存在すら感じてしまう。

そうして生まれでてきた一枚、また一枚は、きっと色んな言葉を孕んでいる。比較はできないけど、もしエッセイが言葉でできたお菓子だとするのなら、写真も記憶という目には見えない言葉でできたお菓子なのかもしれない。さらにスケールの箍を外してみると、この星、地球という惑星すら一つの巨大なあめ玉みたく思えてきてしまう。目を凝らすと、あちこちで色んな瞬間が生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。このお話も、きっとひとつのあめ玉だと信じたい。