しごと


梅雨の季節。
天気と気圧のうねりに加え、まだ心は4、5月の忙しなさを引きずってしまっているようで、すこし心がおもい。
すっかりと社会的に「おとな」になったここ数年、誰かが手掛けたしごとにもふと目がいくようになった。
といってもお金のことうんぬんではなく、自分の「手で触れるもの」、「目や耳に入るもの」に分けられるしごとについて。

「手で触れるもの」は、人の手によって生み出された、かたちあるもの。
たとえばざっくり分けると、お店に並ぶもの(本、食事、道具、作品...)とそうでないもの(建築などの人工物、人の意志が加わった自然物...)など人体のスケールを超えるものまで含めたしごと。

「目や耳に入るもの」は、人の手、態度、姿勢によって生み出されたもの。
たとえば人との接し方、言葉の選び方、架空の物語、音楽...
人と近い距離にあるものから、いまここを離れた距離にあるものまで含めたしごと。

わたしはどちらのしごとにも、技巧的なところだけでなく、”生活のポリシー”だったり、自然体なその人”らしさ”といった生きることへの向き合い方を、つい探して取り入れたくなってしまう。

話が逸れるが、グラフィックデザインを溺愛していた頃、デジタル媒体や広告よりも書籍のエディトリアルやパッケージといったプロダクトデザインにつよく心惹かれたのを思い出す。なぜかを問うてみたところ、形あるものは留めておくことができ、愛着を持てるから(形に残るものをわたしもクリエイターとしてつくりたい)というのが最もな理由っぽかった。
デザインと少し距離が空いた今でも、形あるものだったり、そのものらしさや佇まいを尊重したデザインをされるクリエイターの方たちのしごとに惹かれるのは変わりないけれど、すこし捉え方が変わったと思うのは、実体を持つ/持たないに限らず、なにかAというものを通じて感情の揺さぶり(楽しくなる、悲しくなる、感動する、思い出す...)をもたらすことが人が作ったものにはできるし、そのものが生み出す影響は種類が違うだけで回路としては同じなのではないかと感じるようになったところ。

学生だったあるとき、「作品が良いと感じたら迷わず作者本人に伝えることにしている」と教えてくれた友人がいて、それめっちゃ素敵やんと思った。
その影響で、わたしもいいと感じたものは伝えるんだ!と心に旗を立ててはいるのだけど、直接伝えたい場面で恥ずかしさと自意識過剰のせいで言えずじまいなこともあるのでたまに後悔する。
どうしても対人で現れる緊張や不安、気分の落ち込みはひとへ伝播しやすく、受け取る方も敏感になってしまう。
もっぱら最近はどうやったら心にゆとりを持って人と接することができるか、リラックスしてお互いが過ごせるかを試行中...。

試しながら、いろんな人や過去との関係性を精査していくことがいきることなのかもしれない。酸いも甘いも経験すること(知ること)はそれまでになかった視座をもたらしてくれるから、尊いものだと思う。その意味が自分にとってどう影響するのかは、すぐ腑に落ちることもあれば時間差や別の経験を経た後でないと実感として効果しないこともあるから、じっくり待つこともあるかもしれない。
自分のことに手一杯になりながら、人のしごとに影響を受けながら、心惹かれるものと出会った瞬間には素直な思いを伝えたり、ちゃんとよいと思えるものをこちらも差し出せるようになりたい。(これからもじっくり自身と向き合っていきたいことなので、忘れないように書いておく)

ちなみにきょうは松原俊太郎さんの『イヌに捧ぐ』という短編小説をよんで、わずか数ページに凝縮されたすさまじい時間の濃密さにぐっときてしまった。

fly


いま 存在しない蝶になって 飛べば
あんなにちっぽけな 時代で あったのだと

風に揺すられるのは こわい
そのこわさは風のではなく 僕の気もちだった

このからだの鱗粉は 僕自身がつけたものなのです
白金色の あの月になろうとして 

夜を集めて 溶かした湖のあぶく
ふーう ふーう
でたらめな呼吸を 側で 見つめる

蝶になって 食卓に会いにいく
食卓になって 音楽に会いにいく
音楽になって 別離に会いにいく
別離になって 産声に会いにいく
産声になって 蝶になって 


いま 存在しないあなたに

2026-02-17


ここ数日は春の心地で、日中は上着いらんし暖房代もちょっと浮いていいなあと嬉々としていたけれど、私には花粉があるんだった。
秋田に引っ越したとき、花粉症がおどろくほど軽くなった(なぜかは未だわからない)のに、静岡に戻ると症状も高校生のときほどではないけど戻ってしまった。
知人いわく、年とともに花粉への反応は鈍くなっていくそうで、それはそれでうれしいような、かなしいような。遠い気分。


この都市に風を湿らす雪はなくライオンたちのたてがみの匂い
 天野陽子 歌集『ぜるぶの丘で』

 

もう言葉だけで遠くへ行くことを張り合わずとも体温はある
 永田紅 歌集『いま二センチ』


揺れ動いて、あちこちに進みたがる。
すべては、ほんのわずかな、傾きのある決意だけのような気がしている。
そしてその背中を押すために、これまでの過程を受け入れること、じぶんにも相手にもオープンでいること。

白い、おおきい、わからない


.

白壁で揺れる影の濃淡に わたしの ある を見る
今ここにすべて、
とどめておきたい

盆踊りの風習はよく知らないけれど
群れのなか
はじめての破顔をみて、ちいさいケアだと思う

身体は見聞きしたものを刻んでいくレコード
みんな管だから 感情すら薄まって流されてゆく

伝播して くにとくにをさえぎるのは紙だけ
かるく浮く
眩しさはない

動物どうし 膜から生まれてきた
白い、おおきい、わからない

寝息にはなしかけて、おだやかになる
やけどするから ふーふー どうぞ

.

ずっと旅



お互いがお互いでいなくなっていくことは、半分ほんとで半分うそだと思う
毛布のなかで想像したこと、初めて漢字が書けたこと、先生をついお母さんと言ってしまったこと、一輪車に乗れたこと、竹馬には結局のれなかったこと、朝の集会に間に合わなかったこと、ごはんがおいしかったこと、つないだ手が自分より暖かかったこと、肌がすべすべだったこと、お風呂が気持ちよかったこと、おばけが怖かったこと、ロックに感動したこと、入院したこと、怒らせてしまったこと、すぐ爪を噛んでしまうこと、夜の空があまりにも遠く広かったこと、ズルをしてしまったこと、病気で死にかけたこと、剣道に通うのが厭だったこと、憧れたこと、誰かの母親が誰かにとっての母親であること、ほんとうのことを言わなかったこと、ワンピースを知っている人からしか聞いたことがないこと、そこにあなたがいたこと、ここにわたしがいること、身体に傷をつけたこと、欲しいものが買えたこと、合唱でソプラノだったこと、ものを取ろうとして手が届くこと、目が見えにくくなったこと、お肉を腐らせてしまったこと、人に出会えたこと、時間を間違えるほど没入していたこと、もう愛せなくなってしまったこと

すべて嬉しかった

身体という乗り物に乗って
生きている間、旅をしている


今朝は6:20ごろにおしっこに行きたくて目が覚めた。習慣は割とすんなり身体になじむほうで、お休みの日でも決まっておなじ時間に目が覚めることがほとんど。
ひとりでいるので生活音を立てなければ何も返ってこない部屋は、心地よいのかよくないのか、よくわからない。静けさがこわくなると音楽をかける。そうすればそこが安全地帯にかわるんじゃないかときっと思っているから。イヤホンやヘッドホンで穴を塞ぐのは、じぶんを周囲から奪われないようにするため。“詩の領域”ということばで試しに言ってみるけれど、現実の世界ではないどこかを見出すこと、そこに居場所を持つことは生きていくためにとても大切なことだと思っている。

いま書棚にはまだ数ページしか読めていないような本ばかり増えていて、こちらをじっと見つめている。気分によって読みたい本はかわるのだけれど、今朝は長田弘さんのエッセイ本『自分の時間へ』を手に取りよむ。
当時24歳だった長田さんがいまはもうない雑誌『現代詩』の編集後記(1964年1月号)に記されたところが刺さってしまって、何度も読み返した。どうしてか、そこに書かれていることばは読むたびにフレッシュさが香ってきて、風がそよいでいる瞬間を描いた絵画をみているような、そんな心地よさなのです。ほんとにすごい。

こうして誰かが残したことばに圧倒されるたび、これこそが本を読むよろこびなんだろうなと思う。もちろん本という形だけに限らず、人がつくったものすべてがそうであるように。


ひとしきり動いた後バタンと眠りこける夜もあれば、一日をまだ終わらせたくなくて悶々としてしまう夜もきっとある気がします。
ちなみに本日のわたしは後者の気分。

こんばんは。
だれにとっても平等な一日、みなさんはどう過ごしたのでしょう。
こちらに見えていなかっただけで、無数の人の意志だったり思考だったりがすぱすぱ交差していたのだと想像して、すごいや...と思ってしまう。そういえば今日が夏至だったんですね。(のほほんとしていたので、ついさっき知りました...)
わたしの一日は部屋の掃除と展示を観に豊田市のsabotさんに行き、ご飯を作るなどして過ごしておりました。
こだわりの限り、造形と美学を追求されていることが伝わる素敵なお店だった。

ここ1ヶ月ほど、自己否定の深い谷に沈んでいる。誰しもが抱える悩みであることは承知しているのだけど、幼稚な態度をとってしまったことを悔いたり、選択したあとに起きた結果について浅はかだったと憂いたり、できごとと自身を照らし合わせては、なぜこうなのかと省みるばかりになってしまっていることに気がつく。(裏を返せばそれは自己愛性の現れでもある気がしている)
どうすれば相手と心地よくいられるのか、そのためにできること、献身ばかりではなく環境を見つめ直すことも必要かもと思案中。
今はまだ答えが出せそうにないこと、それは決していいこと悪いことのどちらかだとは思いません。たくさんですが日々が続く限りは思いついたところから実践していきたい、という決意を最後に。

素敵な日が明日も地球上に訪れますように。