つよい人よわい人

 

生活を回していると、ただ流れているだけの時間の中にあらゆる”境目”が散りばめられていることに気がつく。その根底にはきっとわたしたちにとっての「都合を良くするため」があって、「一分二分」といった細々した時間の切れ端から「ライフステージ」や「人生の節目」のように、分かりやすい形をした境目が無数に切り込まれている。でもこれはきっとそう思うこともできるし、思わないこともできる。
時間に限らずわたしたちがいる社会に目を移してみても、同じことが言えるのかも知れない。労働のルール、人を裁く法律、家族の在り方、ほんとうはありもしないものをあると信じることができる。その虚構に包まれながらも、信じることで他者と繋がりを持てたり、自分の生を実感できる瞬間もあれば、そう思えない瞬間もある。わたしたちは常にここにはない場所に向かって、物語を作りながら生きているのかもしれない。過去から引き継いだ物語に手を加えながら、数えきれない人によって織られ続け、とても巨大な巻物を次の世代へと受け渡していく。そんな流れに気がつけば乗っけられているという感覚がある。

3年くらい前のことを少し思い返してみる。大学生だった当時、深いところで理解し合えると思える人に出会い、共に時間を過ごすようになった。いつかわたしのことを「魂が近い人」と形容してくれたことがずっと記憶に残っている。精神が未熟ながらも色んな話を重ねる中で「つよい人とよわい人」について話を交わした。
わたしにとってその人は「つよい人」でわたしは「よわい人」だった。そのことを打ち明けると、相手はわたしのことを「つよい人」だと言った。今思い返すと、「つよい」も「よわい」も何かを基準にした時に生まれる、プラスやマイナスのでっぱりをそう判断していたのだろうと思う。時間が経つにつれ「つよい」も「よわい」も使わなくなっていったが、それはなんとなく基準そのもののいい加減さに気がついてしまったからだったと思う。近しい存在だと思っていたお互いですら、全く違うところに基準を設けて周りのあれこれを判断していたのだから。


「事実はない。存在するのは解釈だけだ」というニーチェの言葉を思い出す。
「つよい人」も「よわい人」も「時間の境目」も「ほんとう」もきっとこの世界にはない。ただ自分のなかに何かしらの基準をこしらえて世界を見た時、そうした解釈が生まれるのだと思う。その解釈は、自分の意志で変えることもきっとできる。ここにわたしは希望そのものを感じている。だってそれは、破壊と再生、それまでの自分を亡くして、新しく作り変わった姿と向き合える出来事だから。昨日会った人はもう知っている「あの人」ではなくなっている、各々が抱えた、そしてこれから失うであろういろんな解釈が蔓延っているのがこの世界なんだということを忘れたくはないし、それを卑下してしまうのは簡単かもしれないけど、他者との繋がりから遠のくばかりのような気がしている。それだけは忘れずにいたいと思う。