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エッセイがとても好き。立ち現れた悩みごとが足取りを重くさせるとき、棚に仕舞い込んだエッセイ本をいくつか手に取り、眺めてみる。エッセイ本に出会った当初は、物語と違って、別にどこから読み進めてもいいのだしなとなんとも気楽な心持ちでいたのが、ある時ふと、エッセイとはひとつひとつに著者の生活記録や思想が詰まった宝箱とも言えるんじゃないかと思えた。そうすると一冊のエッセイ本はまるで一個のブランドで、色んな顔をしたお話がパッケージされ、着飾ったきれいな姿で陳列されている様子が浮かぶ。各々に授けられた誇らしげなタイトルをぶら下げて。

リボンを解く、開封の儀式、少し味見、これは悲しい味、こっちは苦しい味、こっちは嬉しい味、こっちは楽しい味、こっちは不思議な味。
文字だから腐らないことを良いことに、気ままに頬張って手をつける。昔買った村田沙耶香さんのエッセイ本に『私が食べた本』があったのを思い出す。やっぱり本は食べ物だった。


photographyがとても好き。普段は写真という言葉を頻繁に使うけど、本当は写真よりもphotographyの方がしっくり来る。「真を写す」と書いて写真。その字の通り、写真は必ず機械というフィルターを通って出てくるから、中立的なものに見える。けれども、それだけでは済ませない要素もあるように思う。photographyという言葉は、「光(photo)と書くこと(graphie)」という2つの単語に由来する。光で描く。この言葉には、いつも意志を持った人間の動きが見え隠れして見える。絵の具のように光を操って、鮮やかな色彩や濃淡のある画をつくりだす。一人の人間が、捕まえたイメージに実体を与えてこの世界に生み出そうとするまでのこの一連に、どこか魔術的なものの存在すら感じてしまう。

そうして生まれでてきた一枚、また一枚は、きっと色んな言葉を孕んでいる。比較はできないけど、もしエッセイが言葉でできたお菓子だとするのなら、写真も記憶という目には見えない言葉でできたお菓子なのかもしれない。さらにスケールの箍を外してみると、この星、地球という惑星すら一つの巨大なあめ玉みたく思えてきてしまう。目を凝らすと、あちこちで色んな瞬間が生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。このお話も、きっとひとつのあめ玉だと信じたい。