好奇心と理性[2023年11月寄稿文]


 太陽が沈んだあと、ひとは何をして過ごしているのだろう。指先を袖にしまい込んだままスーパーの品物を吟味するあのひとは、一体どこからやってきてどこに消え、誰と何を食べるんだろう。街中を笑い飛ばしながら闊歩するあのひとびとには、どんな時間が流れているのだろう。 そして、どんな夜を過ごして、どんな朝を迎えるのだろう。日々をやりくりしていると、そんな疑問にいちいち突き当たってしまう。夜はいつでも謎めいていて、あまりの未知の広さに不安を覚える。とっくに成人となっているわたしは、これまでに過ごしたであろう、夜のあれこれを振り返ろうとするけれど、どれも掴みどころがなく、幻だったような感覚がしておぼつかなくなってしまう。何も知らないのに、世の中の仕組みなどもう十分知っていますとも、と背伸びして周囲に溶け込もうとした罪悪感すら感じ始める。 街は年の瀬に向け、あちこちで熱を膨らませている。にも関わらず、身体はどこか冷めている。こんなことをぐるぐると考えあぐねてしまうのは、人恋しい季節だからではないかと勘ぐってみたりする。思考はときに、思ってもみない方へ加速する。やがてはこの体を離れ、ぐんぐん独り歩きしていくような奇妙な感覚に襲われる。そして往々にして、この暴れ馬のような思考を手懐けようとする、もう片方がわたしの中にいることを自覚するのです。

 生まれたときから、人は、外側にまつわるあれこれを見聞きする。赤ん坊はよだれまみれになりながら、手に取り、口に入れたものの形と質感を覚えていく。世界に向いた、底のない好奇心。しかし年月を経るたび、わたしたちは体へとやってくる情報を完全にはコントロールできないものの、どう受け取るか、受け取らないかの範疇を、個人の裁量で幅を変えようとする。そんなわたしは、幼少期から極端な好奇心を持ち続けてきた。気に入ったものにはとことんのめり込み、やがて飽きが来ると対象を変化させる。自分の琴線に触れたジャンルを、気の赴くまま彷徨してきた。中でも仮面ライダー、昆虫採集、鉄道にぞっこんで、夏休みの自由研究は、セミの羽化に神秘さを感じ、2年連続でその一部始終を観察した。(捕まえてきた幼虫を寝室のカーテンで羽化させ、早朝に飛び回るセミを母と必死に捕まえたのは懐かしい思い出...)鉄道では、ただ電車に乗りたいという理由で、毎週土曜日になると、自宅最寄りの駅から目的地を当てもなく決め、どの路線を乗り継いで行くかを楽しんだ。あるとき「代々木公園」を目的地に決め、JR線、東急、東京メトロの各路線を経由しながらたどり着いたのだけれど、階段を登って地上に出た途端すっかり満足してしまい、すぐ帰りの路線に乗ろうと引き返したことがあった。今思うと、なんて贅沢な乗り方をしていたんだろうと思う。乗車するのは決まって先頭車両。聴覚で鉄道会社や車両ごとに異なるインバータ音を堪能しながら、足裏を伝う小刻みな振動、車両の中という非日常の匂い、窓の前面に広がる展望、すべてを独り占めしているような感覚が何よりも好きだった。その一方で、全く興味のないことに向かう意欲はあまりにも低く、今でもとても極端な性格だなと感じる。俗に言う「こだわりの強い性格」である私は、この生まれ持った性分を誇りに思う反面、とても厄介だなとも思う。中間のすっぽ抜けた「いい」と「そうではない」の両極端な感情に操られて、理性という手綱を握るもう一人が齷齪しているように思える。そうは言っても、好奇心だけで他人と折り合いを見出していくのは、とても困難なことだ。ときには自分を貫き通すあまり、対立だけを深めてしまったこともあった。またあるときは、相手の大切にしているものを汲みとることができず、悲しい気持ちにさせてしまった。少なくともこちらが自覚している範囲に限られてしまうが、まだ書き足りないほどの後悔がある。それでも、歳を重ね、徐々に周囲の人と関わりを築く中で理性が培われ、失敗を重ねてきた自己の「我儘さ」や「奔放さ」は、少しずつ場合に沿って発露を控えることができるようになった。しかし今でも、好奇心とそれを俯瞰する理性との間でわたしは揺さぶられ続けている。

 夕方、だんだんと街中を歩く人が増え始める。自転車に乗った何人かのこどもたちが、言葉を交わしながら側道を瞬く間に去っていく。あの子にも、あの人にも、好奇心と理性はある。でもこの2つの成分って一体なんなんだろう、と思う。どこからわたしの中に入り込んできて、いつどこへ連れ去ってしまうのだろう。不意に立ち止まらせる。わたしとは何者なのだろう、どのように周りと接し、これからはじまることのなにを吟味するべきなのか、考えてしまう。でもどうだろう。本当はわかりたくない。縛られることなく、自由でありたい。そんなふうに、思考のすべてを投げ売ってしまいたくなるようなわたしもいる。思考も、感情の深さと同じ様に、どこまでも際限のない広がりを持っている。
 狩りをする獣を想像する。飢えた身体で低く呼吸をしながら、出会える保証の一切が分からない獲物を求めて土地を転々とする。いつまでも広々としたわからない領域をさまよい歩く、そんな動物に、もしかしたらわたしは憧れているのかもしれない。

2023年11月15日 『あの人新聞』へ寄稿
※一部編集を加えています。