あなただったかもしれない


 夕食後、上着を羽織って外へ出ると、ちいさく光る星星を見つけた。寒いな、もうちょっとしたら帰ろうかなと思いつつもうっとり眺めていたら、おや既視感。これは一体なんなんだろうと遡ってみると、それは一人暮らしをしていたころ、床に誤って散らかしてしまったお米の姿であることに気付く。あれはたしか掃除機で吸い取ったんだっけ...。ホコリや毛の諸々と混ざって、中ですごくカラカラいってた...。
 そんなお米の余韻(?)に浸りながら、家に帰るため、住宅だらけの夜道を歩いていると、澄んだ空気と混ざって家庭ごとの匂いが香ってくるので、少しだけワクワクする。そういえば昔遊びに行った友達の家もみんな違う匂いだったのを思い出した。(...と書きながら、匂いとその際に目で見たイメージ?の結びつきってとても強固なものとして捉えているなと思った。)その時香った匂いも我が家のもすっかり遠のいてしまったけど、どの家もなぜか、なんとなく安心する匂いだったような気がしている。

 思えば、人生って分岐点のかたまりでできていると感じることがよくある。ヒューマンドラマや映画、漫画を観ていると、このことがいつも頭から離れない。ふとした言葉や態度でガラッと感情は揺れ動いてしまうのだから、こうして文章なり人との会話なりで整理しておかないと、たちまち今どこに漂着しているのか分からなくなる。精神状態はその時々でかたちを変えてしまうから、人と対峙したときに立ち現れるのは、いつでもこの偶然性。家に引き籠もりたいと思う際の心情には、きっとどこかでこの偶然性に怯えていたり、煩わしさを抱えているからなのかもしれない。

 出会う瞬間の人の姿はいつでも断片的で、だからこそ内側に抱えた想いやその人がこれまで過ごしてきた時間の軌跡を窺い知ることはとっても難しいなあと思う。(当然、当人にとって知られたくない過去もあるので、どこまで歩み寄っていいのかの判断は必要ですが...)
 たとえば初対面の人と接するとき、わたしの場合、緊張よりも好奇心の方がいつも上回ってくる感じ(恐らく、どんどんお互いの解像度が上がっていく過程が好きなんだと思います。)がするのですが、皆さんはどうなんでしょう。
 インタビューや対談(あるいは日記やエッセイしかり)も、そういう、人の輪郭が刻々と鮮明になっていくところに強く惹かれてしまう。

 他人の感受性に触れ、影響される一方で、その人が選ばなかった(選べなかった)方には何があったんだろうと考えてみる。
 その発端の出来事として、たとえば、被災し住む場所を変えなくてはならなかった。パンデミックで控えていた行事を中止せざるを得なかった。自分の告白・カミングアウトを他者に受け入れてもらえなかった。などが思い浮かぶ。(当事者として経験したことも中にはあるけれど、それでも、ほんとうに圧倒的に体験したことのない出来事が多くを占めているから、ちゃんと知る、というか勉強しなきゃいけないと思う。)
 
 以前とある事件の特集番組を見ていて、度重なったよくない偶然の結果、歪んだ認知が生まれ、事件に発展してしまった。という過程を目の当たりにして、ああ、たまたま自分は今こっち側にいるだけなんだと思った。そういったことを未然に防ぐための支援制度や救済の取り組みがあることもなんとなく知っているけれど、やっぱり誰しも生まれた時からすでに、掬い取る以前で格差は生じてしまっていると思っている。戦争や紛争も、たまたまこの時代に、こっち側の国に、人種に生まれてしまったから、死ななければならなかった人がいるのだと思うと、浮かび上がる何人もの可能性の姿は、大袈裟かもしれないけれど、もしかしたらあなただったのかもしれない、と言われているような気がする。だから今生きている人はみんな「可能性の姿」なんだと思います。