つよいのつながり[2023年11月寄稿文]


 2023年夏、近所のキャンプ場で知り合いの家族と川に入った。お子さんは小学2、3年生の女の子。持ち寄った野菜や肉を焼いて食べたり、ハンモックで横になったり、川で遊んだりするうちに段々と打ち解けていき、帰り際にはあだ名を命名されるまでに至った。その子にとって、ここでは初めてのキャンプだったのか、周りに広がる、なんにでもに遊びを見出しては、内側に蓄えた熱量を注ぎこんで行動しているのがとても眩しかった。子どもの、ちらつかせる純度の高い眼差しは、こちらの中身すら見透かすような気さえして、どきりとする。子どもに限らず、成長は外見だけでなく人のこころまでも変えてしまうから、少し残酷に感じる時がある。諸行無常がこの世界の常であることを、私たちはすでに知っている。だからこそ無邪気に感情のほとばしりを散らす姿に、愛くるしい気持ちだけでなく切ない気持ちすらも重ねてしまうのかもしれない。
 キャンプも日の入りとともに段々と終盤に差し掛かる。川は冷たいばかりで、もう誰も近寄らない。なかなか言うことを聞いてくれない我が子に眉をひそめ、口を尖らせつつも、根底には優しさを持って接する彼女の母親の姿を見ると、お互いがこれまで積み重ねてきた、時間の差というなにか絶対的な隔たりがあるにも関わらず、こちらが決して関与することを許さない、強いつながりが確かにあるのだ、ということを思い知らされる。このつながりは、きっと他のどの関係性よりも強力だ。
 
 漫画の「ドラえもん」で、のび助(のび太の父親)がタイムマシンに連れられて過去へ行き、もう亡くなってしまったのび助の母親(のび太にとってはおばあちゃんにあたる)と再会を果たすという話があったことを思い出す。母親と再開したのび助は、ただの息子となって、母の膝下に枕しながら、会社の愚痴を泣いてこぼす。親子のつながりは、子が成長し、親が年老いてもなお消えることはない。

2023年11月15日 『あの人新聞』へ寄稿
※一部編集を加えています。