今日も無事


 特段ふだんと変わりない日を繰り返しまたいでいたら、年が明けていた。紅白も時間を割いて見ようという気も起こらず家族と過ごした後は自室にこもって静かにインターネットの中をぐるぐるしていた。0時をすぎれば「HAPPY NEW YEAR」の文字とともに一斉に昨年の振り返りやほっこりする画像ばかりが溢れるのだろうなと思いつつ、眠気に襲われ早くに就寝。2024の馴染みのない数字を目にしても感慨もなく、かえって自分の年齢と成熟度の間に深々と拡がるちぐはぐさに愕然とするばかり。もう数字ばっかりでやだな。

 でもそうやって成長と向き合い続けていくのが日常たるんだろうかとぼんやり思っていたところ、北陸で地震が起きたことを知った。あまりにも突然で、だれの頭の片隅にも留めていなかったことがどんどん大きくなっていくことが、ただただ恐ろしかった。一瞬でたった今まであった慣習や思い出、命のなにもかもを奪い取ってしまうこと、そして残された人々にとっても遺恨として直視せざるをえない状況がまだあるのだということにはっとする。被災したという当事者としての経験がない自分にとってテレビに映る離れた土地の現状や人が抱えている苦痛は想像することしかできず、どうしようもない気持ちになる。それと同時に、いまここでも同じように地震が起きたらと考えると、あまりにも準備不足で不安ばかりが先行していく。海からは離れているとはいえ、高齢の家族が身近にいるので、水が使えなくなった場合のトイレや服用中の薬のこと、避難した先でのこと、話しておかなくてはいけないことばかりだ。

 そうして心をつかめない不安で曇らせてばかりの年始だったけど、一方でじぶんの精神を守るというか、そういう時間も必要なんだと感じるようになった。先のことや他者に思いを馳せることばかりでは浮ついてしまうから、少なくとも今できることはこの今に注力することなのかも。そう思うようになったのはここ最近のことで、なんでこんなことにもっと早くから気づけなかったんだろうとナーバスに入りかけたけど、色んなタイミングを経てからでないと気づけないことがあると母に言われ、そうかと了解した。前もって準備しておいたとして、実際のところはそのときになってからでないと分からないのかもしれない。

 実家のルールでは、夕食前に手を合わせて「今日も無事に一日を終えることが出来ました。ありがとうございます。」を「いただきます」の前にくっつけて言うことが子どもの頃からの習慣になっているのだけど、最近は口にするたび重くなって響く。この切実さはきっとまたすぐに忘れてしまうから、残しておきたいと思った。