余韻で残るもの


 心が重たいとき、はたまた小躍りしたくなるとき、音楽を聞いていると、心境がどんな形であれ、沿うように包みこまれるような感覚がある。音楽のちからは、目に見えないちからだけど、やはり人間にとって欠かせないものなのだと再認識する。
 遡ること一週間前、寝る前に持て余した時間を消化すべくYoutubeの「高く評価した動画」の履歴を覗いていると、藤田真央さんというピアニストの方が情熱大陸に出演された動画(公式)を見つけた。思えば、過去のじぶんがした「高評価」や「再生リスト」に入れた動画は、見返さない限り、どんどん新しく追加した動画によって奥の方へ埋もれていってしまうのだから、ことあるごとに「あれ...これどんな動画だったっけ」と記憶の網目からすっぽ抜けてしまう。

 再生すると、踊るようにピアノと向き合い、喜びを体現しているかのような藤田さんの姿に眩しさを覚えたのと同時に、練習として弾いていた曲そのものにガツンとくらってしまい、すぐさま曲名を検索。するとどうやらチェコスメタナという作曲家がつくった「ピアノ三重奏曲ト短調 作品15)」の「Finale. Presto」という楽曲であるらしい。実際の演奏を聞いてみるとなるほど、ピアノだけのときとはまた違って、音の切迫感や重厚感がけたたましくて圧倒される。短調の閉塞感めいた雰囲気と何かに急かされているようなテンポで、なぜか頭には、風ばかりが強く吹き荒れる、誰もいない冬の湿地が浮かんだ。その後、曲はゆったりとした場面を挟みながら、後半、なにか眩いものがせり上がってきて大変貌をするのだけど(実際に聞けば、お分かりいただけると思います...)、この瞬間が本当にたまらなく好きで、それからは、余韻をいつでも頭のなかで引き出せるほど。
 この曲をはじめて三重奏で聞いたとき、説得力もなにもない言い方だけれど、「人生そのもの」が凝縮されているような気がして、スピーカーの前でフリーズしてしまった。とくに前述した大変貌の部分は、それまでのすべてが許された瞬間のように聞こえ(なにがっていうのは分からないのだけど)、どんな姿でいようと、生そのものをたんと肯定しているように聞こえた。
 ふと調べてみると作曲者のスメタナは40代後半に失聴するまで、20代後半から徐々に聴力を失っていったそうで、その過程で生みだされたこの曲には、いったい彼のどんな経験や思想(苦悩も含め)が込められているんだろうかと想像するけど、どれも確証はなくて、暗闇に手を突っ込んでいるような気がしてならない。だけど、生きている時代もあるいは国も違うのに、現代でも世界中で、多くの人に大切に大切にされていることは確かな事実であって、そう思うと彼が当時感じていたなにかしらと今生きている人の中のなにかしらが一本の線でピン!と繋がっているような気がして、余計にグッとくる。

 そんなもろもろの余韻に浸りながら外へでると、通り抜けた風が街路樹のほそぼそとした枝をつよく揺らすから、ここはまだまだ冬。湿地では全くない住宅街を抜けながら、季節が春めくまでは、しばらく頭の中をリピートしてしまうだろうなと思う。

そして藤田真央さんの動画はこちら...

https://www.youtube.com/watch?v=2oC7nK1h8Gw